「完璧」が好きだった。自分がそうある事で、心のバランスを保っていた。
見慣れた気の扉を押し開けて、目にしたのは想像よりも遥かに酷い光景だった。部員は全員地面に倒れ込んでいるか力無く座り込んでいるかのどちらかで、その誰もが苦痛を顔に滲ませている。そしてそれ以上に酷いのは、コートの現状だった。
何が起こったのか全く予想できないが、ネットは破れ地面は抉れ金網にまで穴があいている。一体どう暴れればここまで酷い惨状を生み出せるのだ。
「な、んやねんこれ…」
「あ、白石!」
呆然と立ち尽くす俺に駆け寄って来たのは同じクラスの謙也だった。金色の髪を砂埃に塗れさせ、腕も擦り剥けた様で血が滲んでいる。どうしたのかと問えば、謙也は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「完敗や。ヤバいであの一年」
「どの一年や。ていうか何があってん」
あっこ、と謙也が指した方を見ればそこにはレギュラーの群れがいた。そして皆の視線は中央に向け下げられている。おそらくそこに例の一年がいるのだろう。駆け足で近寄り覗きこめば、目に痛い程の赤い髪が目に入る。
豹柄のタンクトップにハーフパンツ、手に随分古いラケットを持ったその少年は皆の中心で満面の笑みを浮かべていた。背は、随分小さい。
「お前はないん」
「え?」
「金ちゃんに負けて悔しいとか、なかったん?」
言われて、何故かどきりとした。今まさに自分でも思い至ろうとしたところに急に触れられ、心が焦ったのだ。
テニスで負けて、それも二個も下の後輩に。悔しくない筈がない。なのに。
金太郎に負けてからこっち、その様な思いを自分自身抱いていたかと言われればノーだ。謙也のように嫉妬心を覚えた事などない。
言われずとも考えて見ればそれはそれでおかしな話だった。テニス部の部長でありながらそのプライドをいとも簡単にへし折られ、何故同じ様に思わなかったのだろう。
考えてもわからない。漠然と、本当になんとなく。金太郎にそのような感情は浮かばなかったとしか言いようがないのだ。
夏の熱気は凍ったアイスを素早く溶かして雫に変える。舌の上に広がる冷たい心地良さと、慣れない甘味の違和感。相反したそれらに混じって、時折固形を保ったラムネが歯に当たって簡単に砕けた。
もう何年も口にしていない身体に悪い菓子。それをこうして金太郎と並んで食べている事実が、とても可笑しな事のように感じた。
「なんかおもろいな」
「え?」
急に投げられた金太郎の言葉に思わず足を止める。考えていた事が伝わったのかと在りもしない事を思い、心拍が早まった。
金太郎も足を止めて振り返る。半分程に減ったアイスを口から離して、夕日に照らされた顔に満面の笑みを浮かべていた。
「わいと白石真逆やけど、こうしてたら同じみたいや」
そう言って、手に流れたアイスを舐め上げる姿に呆然とした。心臓が、跳ねた。
彼が言うこうしてたら、の「こう」は、共にアイスを舐めている今の状況だろうか。それとも肩を並べて帰路を共にする事だろうか。
そんな事はどっちでもいいし、どっちでなくてもいい。けれど、今気付いた。
金太郎と自分は「真逆」なのだ。そんな誰しもが知っているような事に、気付いたのは今。
自分とあまりに違うから。違い過ぎて、負の感情なんて抱きようがなかったのかもしれないああそうか、と少し納得した。自分は金太郎を人間として好きなのだ。多分、コートで向かい合ったあの瞬間から。だから彼に対する感情が他に向けるそれと違うのだ。
気が付いたら叫んでいた。きつく拳を握りしめて、ゆっくりと立ち上がる。
金太郎は悪くない。悪いのは全部自分。そんな事もうずっと前からわかっている。なのに今、心の中で自分は金太郎を責めていた。
自分でも導き出せなかった答えを、口にされるのが怖かった。突き付けられて、よくわからないままそれをそうだと認めてしまうのが嫌だった。
逃がして欲しいのだ、自分は。このまま、全てをあやふやにして。
だからそれ以上口にして欲しくなくて、言葉を遮った。最低だと思う。だけどもう限界だった。
もう、解放して欲しかった。
「……白石」
名を呼ばれ、顔を上げる事すら出来ない。金太郎が今どんな事を考え、どんな表情をしているのか。それらをしっかりと見据える義務が、自分にはあるというのに。
沈黙が続く中、自分の心音のみが煩く響く。やがて、じゃり、と金太郎が地を踏む音が聞こえてようやく顔を上げた。
金太郎は、こっちを見ていなかった。背を向けて立ちつくすその姿を見つめていると、どれくらいか経った後に擦れた声が耳に届く。
「卒業、おめでとう」
その声は低く放たれ、どこか物悲しげに流れた。それを最後に、金太郎はコートから出ていってしまう。
恐らく、最後のチャンスだった。金太郎にきちんと謝罪をし、話をする機会。けれど、自分はそうする事を選ばず逃げを選択した。
これでよかった。自分でも消化しきれない思いをぶつける位なら、思い知らされる位なら、このまま逃げた方が良い。本気でそう思っている。なのに。
あの日以来流していなかった涙が、今溢れ出ているのはどうしてだろう。今すぐ金太郎を追いかけて、抱きしめてしまいたいと願うのは何故なのか。
そして一つだけ、はっきりとわかった事がある。金太郎に恋しているかはわからない。けれど。
俺は確実に、金太郎を愛していたのだと。
10.06.15