「ひかるー、ちょおきてー」
「…謙也さん?」

朝練の無い日の始業前、自分のクラスの扉んとこにおった人物に名前を呼ばれた。
学ランの中に着込んだパーカーのフードを被った若干怪しい出で立ちのそいつは、良く見れば謙也さんやって。
手招きされるままに近寄れば、彼は困ったように笑って自分の肩を抱き耳元で囁いた。

「あんな、お前ワックス持ってない?」
「は?ワックスって…ヘアワックス?」
「そうそれ」
「持ってますけど」
「よっしゃ助かった!貸してくれ」
「やですよ」
「ええ!」
「嘘っすわ」

耳元で大声を出されるのが鬱陶しくて肩に回された腕を払って、何も告げずに自分の席へと戻る。
横にかけてあった鞄から目当ての物を取り出して、ポケットに入れて謙也さんの横を抜けて廊下へと出た。先々進む俺に謙也さんは慌てて後を追ってくる。

「ちょ、光!」
「トイレ行くんでしょ?俺も行きます」
「おー、ほな連れションするか」
「別にションベンしにいく訳ちゃうでしょ」

ヘアワックスを借りに来たのだから髪形を直すと思って間違いないだろうと言えば、謙也さんは被ったフードの裾を引っ張って更に目深にしてしまう。
そして眉を下げて、うんざりしたように溜息を吐いた。

「おん…まぁな。今日起きたらもう絶対間に合わん時間やったから顔と歯だけ洗って慌てて家飛び出してん」
「間に合ってるやん」
「時計、止まってたみたいや」
「はぁ、」

会話の途中で丁度トイレに着いたのでその後の「ほんまアホっすね」は言わないでおいた。
トイレには誰もいなくて、好都合とばかりに謙也さんは鏡前を陣取って鬱陶しそうにフードを脱ぐ。いつもはきちんとセットされている金髪が、今はぺちゃんとフードに潰されてしまっていた。

「ぼさぼさやん」
「うっさい!やからお前にワックス貸してて言うたんやろ」

差し出したワックスを奪い取るように手にした謙也さんは、蓋を開けようとしたところでぎょっと目を丸める。
まじまじと眺めてから、続いてあーと間延びした声が聞こえた。

「なんすか」
「お前、ハード使ってるんや…」
「髪柔らかいんで」
「俺ハード使うと髪ばりっばりなんねん」
「ああ、痛んでますもんね、謙也さんの髪」

確かに脱色を重ねた髪にハードワックスなんて付けたらがちがちに固まってまいそうや。
どうするんかと眺めてたら結局謙也さんはワックスを手に取って馴染ませ始めた。文句言っといて使うんや。

「部長とか持ってなかったんですか?」

彼は確か自毛であの髪色だし、髪質も柔らかそうだからヘアワックスもソフトを使っている筈だ。
そう思って言ってみたけど、謙也さんは鏡を見たまま両手で髪に指を通しながら首を横に振って見せる。

「あー、あいつのアカンねん。前使ったらかぶれた」
「……へぇ」

部長のヘアワックスは謙也さんには合わない。頭の中で復唱して、今度銘柄を見せて貰おうと思いつつ自分も鏡に向き合う。
朝セットしたばかりで崩れてもいない髪を整えるふりをして、謙也さんの横顔をそっと伺った。
通った鼻筋。きりっとつり上がった眉毛。よく喋るのに薄い唇。あ、これ関係ないんかな。
全部よく知ったものばかり。一年も傍にいれば、知って当然の事ばかり。

「ん、有難うな光。助かった」
「ああ……はい」

きちんと蓋を締めて返されたそれは少しべたついていて、気持ち悪いと思ったけどそのままポケットに仕舞った。
見上げれば、いつも通りに仕上がった髪形。自分のよく知る忍足謙也。
でも、それは同時に皆もよく知る忍足謙也の姿であると言う事も、よく知っている。

「光?」

呆然と眺めていた自分を変に思ったのか、謙也さんが不思議そうに顔を覗き込んできた。
そこで我に返って何か言わないと、と口を開いたと同時始業五分前のチャイムが鳴り響く。

「あ、やばっ。一限体育やねん、ほなな!」

そう言って謙也さんは大きく手を振りながらトイレを飛び出して行った。ほんまいつ見ても忙しない人。
かく言う自分も早く教室に戻らないとまずいのだが、急ぐ気になれずゆっくりとトイレを出た。人気の少ない廊下を歩きながら、今日の新たな発見をしっかりと頭に刻み込む。

(謙也さんはソフトワックス愛用してる。でも白石部長のは合わへん…)

数回繰り返したところで教室に着いた。中に入れば既にほとんどの生徒は着席していて、自分も席に着くと前の席の友達が振り返り話しかけてくる。

「財前、なんか機嫌よさそうちゃう?」
「そうか?」
「うん、笑ってるやん」

きもいで、なんて言われて言い返そうとしたところで数学の教師が教室に入って来た。そこでお喋りは強制終了となる。
機嫌がよさそうって、笑ってるって、当たり前やろ。

今日は好きな人の事、新しく二個も知れたんやから。



-------------------------------------------------------

謙光が好きです。
多分付き合うまでの過程が大好きな私は光の片想い時期とかがハゲる程好きなんだと思う。
謙也くんから惚れるパターンも好きなんですがね。光ってこう、乙女だし。
謙也くんの新しいとこ知る度に嬉しがってると可愛いなって。なんだ乙女だなこのやろう。
それは私の頭の中でした。すみません。


10.04.14